清・乾隆43年(1778年)に、林応寅は中国福建省漳州の竜渓から台湾の淡水庁新莊(現在の台北新莊)に渡り、生徒を集めて教職に務めました。その後、乾隆50年(1785年)に福建の竜渓に戻りました。専門家の考証によると、林応寅は林家で最初に台湾に来た先祖だと言われています。次男の林平侯は16才の時(乾隆47年)に台湾に渡り、父を訪ね、米商人の鄭谷の元で働くようになりました。商売の知恵が豊富だった林平侯に、鄭谷は快く資金を貸して創業を支援しました。当時、台北淡水河は商品を運送する船で賑わっており、特に稲が大きく取引されていたため、林平侯も稲の運送事業を営むようになりました。ちょうどその頃、林爽文事変により稲の値段が高騰し、米の商売で生計を立てていた林平侯は莫大な利益を得ることができました。
その後、林平侯は竹塹の林紹賢と共に台湾の塩を取り扱うようになり、さらに多くの財産を手に入れました。成功した林平侯は40才の時、故郷の中国に戻り広西省柳州の府知事を7年間勤めました。しかし、政治に仕えることにあまり興味がなかった林平侯は嘉慶21年(1816年)に辞職し、再び台湾に戻り定住しました。しかし、当時、台北淡水のあたりで漳州人と泉州人の集団が武器を持って乱闘する事件が発生したため、災いを避けようと、林平侯は嘉慶23年に大嵙崁(今の桃園大渓)の三層(今の福安里)に移り住み、その後、豪邸を建て、大嵙崁堡(とりで)を造り、田畑を開墾し灌漑水路を整備して、それを貸し出して大きな利益を手に入れました。それ以降、林平侯は度々官庁と力を合わせて反乱を鎮め、朝廷に淡水城を建てるよう呼びかけました。道光27年(1847年)、林家は農民が小作料を納めやすくするため、杤橋(今の板橋)に弼益館を造り、これが板橋地域に林家が家屋を構えるきっかけとなったのです。
林平侯には長男・林国棟、次男・林国仁、三男・林国華、四男・林国英、五男・林国芳の5人の子供がおり、それぞれ林家の5つの屋号である飲記、水記、本記、思記、源記を管理していました。この5つの屋号には「飲水本思源(水を飲む時その水源を思う)」、つまり感謝の気持ちを忘れないという意味があり、林家は「本源」を家号としました。5人の子どものうち、林国華と林国芳の2人が最も才能があり、林家の跡を継ぎ、事業をさらに発展させていきました。この頃になってもまだ泉州人の乱闘事件が治まっておらず、災いを避けるため、兄弟二人が枋橋漳州籍の住民に招ねかれて、林家は咸豊元年(1851年)に枋橋の弼益館近くに三落大厝を建設し、完成した咸豊3年に家を挙げて枋橋へ移住しました。咸豊5年には泉州人から身を守るため板橋城を建設しました。その後、まもなく林家は自宅に美しい庭園を築造し、呂西村と謝琯樵などの文人を西席(家庭教師)として招き、北台湾に文化の息吹を吹き込ませることとなりました。三代目の林維源と林維讓は前二代の意思を受け継ぎ、林家はわずか三代のうちに台湾の大富豪となりました。 林維源は中仏戦争後、台湾巡査である劉銘傳に協力し、地方産業の普及や土地の開拓に尽力しました。林本源園邸もこの代で頂点に達したと言ってよいでしょう。
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