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林園の歴史

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破壊と修復

日清戦争で中国が破れ、台湾は日本の領土となり、そこで板橋の林家一同と林維源らは中国の内陸へと避難し、それ以来帰ってきませんでしたが、家の財産の管理を任せられた林彭寿と林祖寿だけは台湾へ戻りました。日本統治時代の初期は日本の下で管理されて昔のままに保存されていましたが、後期になって園邸は破壊を免れませんでした。


1949
年、中国国内の内戦が始まり、台湾に渡ってきた多数の難民は林家の園邸を住処にし、その後、台湾現地の人までも次々と園邸で暮らし始めました。記録によると、当時園邸の住民は1000人以上を超え、300世帯以上あったと言われており、政府は特別にここを「留侯里」と行政区画の一つとして管理するほどだった言います。住民が増えるにつれ、違法建築の数も増加し、内部の破損はさらにひどくなったため、国内外から保存の声が高まり、住民達の移住先や修繕費用の調達などの問題解決を求めるようになりました。1971年に県政府の依頼により東海大学が林家の修繕計画を立てようとしましたが、近隣の反対により中止になり、1977年に林本源祭祀公業が林本源園邸を台北県政府に譲渡し、1100万台湾ドルを修繕費として寄付しました。


台北県政府は直ちに留侯里の住民を移し出し、翌年、台湾大学の土木工事所の都市計画室(台湾大学建築及び城郷所の前身)に委託して、昔の姿に戻すための測量や製図などの修復計画に取り組みました。土木工事所は教師と学生を総動員し、現場を測量し、基礎ベース部分の位置、面積、形状、建築構造、配置、建物の細部、寸法、庭園に現存する物の位置や分類、周りの建物の基礎ベースの環境分析、計画などを行い、各種の図案が完成した後、施工する際の参考として、工事費用の見積もりが行われました。


当時の修復方法と修復の原則として、そのままの状態を保存し大きな修繕を行わないか、本来の姿に復元するか二つの考え方の間で、学界や関係者、延いては一般の民衆で考えがまとまりませんでした。「そのままの状態に保存した方が歴史を感じさせ、より心にそそるものがあるのに対し、元の姿まで修復した方がバラエティーに富んだ伝統文化を求めている社会の希望に応えられる」と考えられていました。最終的には漢宝徳氏、林衡道氏、王国墦氏、洪文雄氏、呉基瑞氏、馬以工女史の話し合いにより、基本的な考え方をいくつかまとめました。林本源園邸の当時の状態を考慮した上で、できる限り本来の姿まで修復することを原則としました。


今では、古跡保存の考えと原則はさらに発展し、建築物本体の価値以外にも、統合的な保存の重要さも強調されるようになり、林本源園邸の保存と修復は台湾の古跡保存の動きに大きく寄与しています。1982年年末に修復工事が始まり、4年後に完成、修復費用は合計で156433218台湾ドルかかり、行政院文化建設委員会(以下文建会)、内政部、交通部観光局、台湾省政府、台北県政府が共同で負担しました。百年以上の歴史を持つ庭園はついに人々と政府各部門の努力によって今日のような成果が得られたのです。

 

【光復以後の花園】

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